今回で100回となる「東京箱根間往復大学駅伝競走」
今では留学生ランナーが走ることは珍しくありませんが、留学生ランナー第一号は誰だったのでしょうか?
調べてみると意外なことがわかりました。
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第65回大会(1989年)
現在、箱根駅伝のルールでは留学生のエントリーは2人以内で、実際に出場できるのは1人までとなっています。
「箱根駅伝」留学性ランナー第一号はケニア出身の山梨学院大「ジョセフ・モガンビ・オツオリ」さん。
第65回大会でエースが集う「花の2区」を任された「ジョセフ・モガンビ・オツオリ」さんは抜群のスピードで7人抜き
1時間8分23秒の区間最高記録の快走を披露し、衝撃的なデビューを飾りました。
第68回大会でも力走し、山梨学院大初の総合優勝に貢献しました。
しかし留学生を受け入れには大変な苦労があったようです。
選手から反発の声
留学生を受け入れたのは「山梨学院大」陸上部の創部と同時に監督就任した上田誠仁監督。
しかし留学生を受け入れようと思っても前例がないので苦労が絶えなったようです。
学生からは「なぜ言葉も文化も違う留学生と一緒に練習しないといけないのか?」
と反発の声も上がりました。
オツオリさんも来日当時は文化の違いや食生活に苦労していたようですが、練習には率先して取り組んでいたとのこと。
それがほかの選手の刺激になり今まで以上に練習に打ち込むようになったようです。
オツオリさんは真面目で人間的にも素晴らしかったのではないでしょうか。
なれない日本でほかの選手たちにも認められるようになるには大変な努力が必要だったに違いありません。
それを成し遂げたオツオリさんは本当に素晴らしい人間ですね。
抗議の手紙
今では留学生ランナーが走ることは珍しくありませんが、オツオリさんが第一号となった頃は
「箱根駅伝で黒人なんか使うな!」などの抗議文が大学に多数届いたそうです。
そんな中でもオツオリさんは途中で帰国することなく、最後まで学生生活を送りました。
もしそれがなければ後に続く留学生ランナーの存在はなかったのではないでしょうか。
享年37歳
オツオリさんはトヨタ自動車に所属し実業団ランナーになり
2003年からは重川材木店の選手兼コーチとなっていましたが
一時帰国していたケニアで2006年8月30日に交通事故のため死去。
享年37歳。
若すぎる死でした。
まとめ
箱根駅伝留学生ランナー第一号はケニア出身の「ジョセフ・モガンビ・オツオリ」さんでした。
留学生ランナーには大変な苦労があったようですが
第68回大会でも力走し、山梨学院大初の総合優勝に貢献しました。
オツオリさんは2006年37歳の若さでこの世を去りました。
今では留学生ランナーは珍しくありませんが、その先頭を走っているのは
「ジョセフ・モガンビ・オツオリ」さんに間違いありませんね。
最後まで読んで頂き感謝します。
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